神々の深き欲望
昭和43(1968年)、今村プロ

製作:山野井正則
監督:今村昌平
脚本:今村昌平・長谷部慶次
撫影:栃沢正夫
音楽:黛 敏郎
美術:大村 武

出演:三国連太郎・北村和夫・加藤嘉
    河原崎長一郎・浜村純・小松方正
    松井康子・沖山秀子・細川ちか子
    扇千景・殿山泰司・水島晋・中村たつ

  あらすじ
二十数年前、沖縄の孤島の神田に、真っ赤な大岩が打ち上げられた。島の区長、竜立元(
加藤嘉)は、兄妹相姦など島の禁制を破った太根吉(三国連太郎)への神罰として、根吉を鎖につなぎ、穴を掘って岩を埋めることを命じ、根吉の妹ウマ(松井康子)を情婦にする。そんな折り、工場建築のため精糖会社の技師(北村和夫)が島を訪れるが、島の娘トリ子(沖山秀子)との性に溺れ、島の風習に同化していく。穴を掘り終え、兄妹は島を脱出。“禁断の営み”が続く小舟を、島の青年たちが襲う。

この映画の舞台になっているのは、日本列島の南端にある奄美諸島あるいは沖縄に近い架空の島である。僻地であるため、そこには日本のもつとも古い習俗が残っている。それは日本人の信仰のいちばん古いかたちであるシャーマニズムである。すなわち、巫女が儀式のなかで没我状態になって神の声を聞き、それを人々に知らせ、人々はそれに従うというものだ。
とはいえ、こういう僻地にも近代化の動きは及んで、この島には飛行場を作って観光客を呼ぽうという計画が進んでいる。そして、その計画をすすめる島のボスが、古い信仰を守るために自分たちの家を売ろうとしない一家を迫害することが主なストーリーになっている。
        
嵐寛寿郎の祖父、三国連太郎の父、河原崎長一郎の息子などの太(ふとり)家は、祖父が知恵おくれの娘と父娘相姦の関係にあるために村でいみ嫌われているが、この一家ほど信仰あつい家もない。
父は台風で神にそなえ田に大きな岩が打ち上げられたのを神の怒りと思い、それを取り除くために何年もかかって大きな穴を掘り続けている。こうして古い信仰に生きる一家が、村の共同体に迫害されて排除されてゆく過程が殆んど神話のような力強さで語られる。
クライマックスの壮大な夕陽の輝く海上での父とその妹の惨殺シーンの荘厳さは世界の映画史上の名場面として特筆されるべきものだ。共同体から邪魔者として排除された者たちの魂が、新たに恐ろしい神々のようなイメージに昇華してゆくことが、その映像のほとばしるような力から直接に伝わってくるのだ。
しかし、この映画のテーマは近代化の強行によって古い良い習俗が破壊されることに反対するというところにあるわけでは必ずしもない。島のボスが巫女のひとりと肉体関係を持って彼女をこっそり支配しているという場面があるように、古い信仰といっても決して純粋なものではなく、信仰はつねに政治に利用されるというのが作者の考え方であるだろう。
それより、今村昌平がここで描いているのは、村の精神的な連帯というものがどんなふうにして維持されるか、そのためには古い信仰がどんなふうに利用されるか、そして政治的に作られた共同体から、それに従わない者がどんなふうにして排除され、抹殺されてゆくか、ということである。僻地の小さな島の物語であるためにそのメカニズムが縮図のようによく見えるけれども、規模こそ違っても日本全体も同じようなメカニズムで動いているのではないか、といっているのだ。

                          (佐藤忠男著 「日本映画300」(朝日文庫) より)